我々は常に未熟な心に支配される、いや振り回されると言う表現の方が正しいのかもしれません。
過去にやってしまったこと、言ってしまったことに悔やみ、思い嘆き、まだ見ぬ未来への不安に脅かされることもしばしばあります。
最先端の脳科学から、脳は電気信号を発し、様々な物質を放つことで、身体に指示を送っていると同時に、何かを決断する前に、すでに脳は動き出しているという事実が明らかになっています。
つまり、これをやろうと自分が決めたと思っているが、実は脳があらかじめ指示を出した結果に過ぎないということです。
これは一体何を意味しているのか。それは私たちを支配しているのは、私たちの意思ではないということです。
かつて、浄土真宗を開宗した親鸞は「心は蛇蝎(だかつ)の如し」と述べ、心を制するのが如何に難しいものであるかを解きました。これは、心に振り回される人間の愚かさ、未熟さを自覚せよと述べている言句と私は理解しています。
多少瞑想を試みた方ならご理解いただけると思いますが、目を閉じて、数分も経たないうちに、様々な感情が湧いてくる、その感情の多くは、ネガティブな場合が多いというあの経験。
そのことから、感情は常に湧き上がるもので、自分の意思ではないということを直感的にご理解いただけるのではないでしょうか。
つまり、私たちは上記の最先端の脳科学の研究結果を待たずとも、人は「脳は意思に反する」と言うことを経験的に理解していると思うのです。
人間は未だ未成熟だと言わざるを得ません。
逆に人間の成熟した姿といかなるものなのでしょう。
それは親鸞が述べた「心に惑わされずに、常に平常心で居られる境地だ」という言葉を思い出します。感情に振り回されているうちは、未だ「心に蛇蝎を宿しているが如し」と。
しからば、私たちはどのように、心を制する修行を積めるのでしょうか。
それは、内なる自分の中に、もう一人の自分、静かなる観察者を育てること。
蛇蝎が蠢く(うごめく)その自分を、静かに見つめるもう一人の自分を認識することである。
それを認識した瞬間、不思議と心が静まっていく。
人は一喜一憂を繰り返す人生から一歩踏み出し、平常心、静かな心で、自分と世界を見つめるステージに上がるべきではないでしょうか。
令和はまさに、その時代の幕開けであって欲しいと思います
その静かな心で、現代社会を見つめるなら、如何にこの社会が蛇蝎に振り回されているかが見えてきます。
私は、静かなる傍観者という視座から、「心を超えた時代」の幕開けを期待したい。
そして、その第一歩は、内なる静かな傍観者を認識することから始まる。
私はそのように思うのです。