ドラマ「沈まぬ太陽」を観て思う

書籍や映像から

1960年代、私利私欲、エゴイズムが蠢く、半官半民のJALならぬNAL航空が舞台。

企業コンサルタントという仕事柄、「しばしば、よく見る光景だなぁ」と思いながら自宅でNETFLIXを観ていた。

 お金、出世、立場を題材に、当時の労使関係、支配する側、される側という対立構造で象徴的に描いた世界。

 現実は、これほどわかりやすく感情が表出されることはないだろうが、心の中ではこのドラマと同じような感情が日々動いている。

 例えば、同期で出世を争っていたライバルが、もし先に昇進したら、心穏やかではいられない。

自分の方が会社に貢献し、誰よりも頑張ってきたという自負があるならば、なおさらのこと。女性にしても、同じような感情を抱く場面はあるのではないか。

 これは、エゴイズムとは何か、この問いにどう処するべきかという根本的な問題だ。

 それに処する技法として、一つは、エゴイズムは無くならないという現実を受け入れること。何故ならば、エゴは、食欲、性欲、睡眠欲という根本的な欲に立脚しているからだ。

この欲が人間には間違えなく「ある」ということは誰も抗うことはできない。

 その欲をもう一段掘り下げれば、生存欲求、さらに掘り下げれば、存在欲求・承認欲求に至る。つまり、私を認めて欲しいという心の叫び。ここに行き着く。

 ただ、認めてさえもらえれば、心穏やかでいられるはずが、「我と汝」、「自己と他者」という対立概念が嫉妬や妬みを生み出す。

 これに処する二つ目は、自己の肥大化という技法。自分の家族のことなら、命をかけても守ろうとするのが男の本能。女性もまた、命をかけて子供を守ろうとする。

 さすれば、家族、子供を肥大化し、自分であるという範囲をどこまでも広げられるならば、この世から争いはなくなるかもしれない。

 しかし、それは悟りの境地であり、人類がそこに至るまでの道のりは遠い。

しからば、いかに処するべきか。

 先ほど述べたように、人間はそもそも未成熟であり、嫉妬や妬みという欲に立脚して存在しているという現実を受け止めることから新たな成長が始まる。

 お互いに、未成熟であるがゆえに、エゴイズムが顔を出し、冷静な判断を狂わすことがある。それを前提として、理解し合うことがまずは必要であろう。

 その上で、自分の中に、もう一人の自分、いわば、静かなる傍観者を育てること。

エゴ、感情の振り幅が大きくなった時、その静かなる傍観者がそれを見つめている

という構図を心の中でイメージする。その時、不思議と感情は静まっていく。

 成長とは、内なる自分の中に、この静かなる傍観者を育てることである。

そして、成熟とは、その自分とともに生き、平常心で生きることにある。

 これからは、一喜一憂という生き方から、穏やかな、心静かなる境地から

この人間社会と関係していくことではないかと私は思う。

 

 

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